敵性国民
[エリカ・コバヤシ]
ブラジルが第2次世界大戦に参戦すると、ブラジル在住の日本人は敵国民と呼ばれたが、日本人に対する差別待遇はすでに、国粋主義を旗印にしたジェトゥリォ・ヴァルガスが1930年に政権を握った時から芽生えていた。
ジェトゥリォ・ヴァルガスは、リオグランデドスル、ミナスジェライス、パライバの各州の政治家の支持を得て革命蜂起、1930年11月3日、ワシントン・ルイス大統領を免職し、大統領に就任した。
この革命は、当時、サンパウロ州とミナスジェライス州が大統領を交互に選出するという取り決めを、サンパウロ州が破ったことにあった。1930年、サンパウロ州出身のジュリオ・プレステスが現職のワシントン・ルイスの後任として推薦され、これに反発して革命は起きた。
ヴァルガス政権の15年間、大統領は絶対的な権力を持っていた。大衆受けする国粋主義政治を行い、工業近代化のための積極的な投資を行う一方、外国人を監視し迫害するような抑制政策を取った。
1933年に法令化された移民制限法はブラジル移民受入れを減少させた。大統領は、外国人が労働組合や自由主義思想を持ち込み、政策の邪魔をするものと信じていた。この法令によると、新規移民は過去50年間に導入された各国移民数の2%しか認めないというものだった。この法令に従うと、日本人には年間2849人の枠しか与えられなかった。さらにブラジル政府は、国籍を問わず10歳以下の子供に外国語を教える事を禁止した。
1938年、ヴァルガス独裁政権(エスタード・ノーヴォと呼ばれた期間)は、外国人の政治活動、例えば団体、クラブ、コミュニティーの設立を禁止する法を発令する。さらに、子どもが外国語を習得する年令が14歳以上に引き上げられ、これによって出身国の言語による基礎教育ができなくなった。
翌1939年、ヴァルガスの外国人差別は極限に達する。外国語による新聞の検閲である。他国語を教えている学校も閉鎖された。例外なしにポルトガル語以外は使えなくなった。日本文化を象徴するような行動は、犯罪と見なされた。
日本人コミュニテーに対する迫害が厳しくなったのは、1945年6月にブラジルが日本に宣戦布告してからであった。日本がブラジルを襲撃した際、敵側(日本)の手助けをする事を恐れて、海岸に住んでいた「国賊(日本人はそう呼ばれた)」は強制的に退去させられた。同じ待遇は、イタリア移民、ドイツ移民も同様だった。
サンパウロ州における抑圧
1939年1月29日、サンパウロ政治社会秩序庁は指令を発令し、枢軸国生まれの外国人の行動を取り締まった。
「ブラジルがドイツ、イタリア及び日本との国交を断絶した事により、サンパウロ州に在住するこれらの国民は、次の事を禁止する事を公布する」
− 当該国国語による文書を配布する事
− 当該国の国歌の演奏または斉唱
− 当該国に対する独特の挨拶文
− 集会、公共の場(バールその他)において当該国の言語使用
− 当該国の政府メンバーの写真などを人通りの多い場所、または大衆に展示する事
− 当庁発効の通行許可証なしで旅行する事
− 自宅を含めて、内輪の祝い事を催す事
− 公共の場で、国際時局について議論又は情報交換する事
− 事前に許可を取得したものでも、所持している武器の使用、武器爆弾に使用する爆発物を売買する事
− 当庁の許可なく移転する事
− 自家用飛行機の使用禁止
− 当庁の特別許可なく航空旅行する事
通行許可証は平日9時から11時、14時から18時、21時から23時まで。日曜日は14時から17時まで発行する。
出典:『コラソエンス・スージョス(フェルナンド・モラエス著)』コンパンニャ・ダス・レトラス出版社