ブラジル日本移民
[エリカ・コバヤシ]
1908年6月18日、移民船笠戸丸は781人の日本人を乗せてサントス港に到着した。この日がブラジル日本移民の歴史のはじまりである。
笠戸丸は神戸港を出発したあと、51日間の航海を終えてサントス港に到着、最初の日本人移民を上陸させた。船は6月18日午後5時サントス港に着岸したが、乗客は夜が明けるまで船中に待機、翌朝7時にブラジルの地を踏んだ。下船する多くの人が竹の棒にブラジルと日本の旗を付けたものを持っていた。その変わった風貌(つり目で他国の移民に比べて背が低い)と、行儀のよさと清潔さはブラジル人に強い印象を与えた。彼らは、移民専用の特別列車に乗ってサンパウロ市ブラス区の移民収容所に向かい、そこから州奥地の農場へ配耕された。
笠戸丸のブラジル到着以前、1897年に日本移民を送る試みがあった。しかし、この計画はコーヒー値の暴落による業界不況のため、渡航寸前にキャンセルされる。日本政府にとって移民の送り出しは、明治維新の政策の一部が招いた貧困と失業問題を解決する手段だった。
1907年、サンパウロ州政府と日本帝国移民会社との間に交わされた協定によると、笠戸丸移民はコーヒー農園で5年間就労することが義務づけられていた。渡航運賃の半額はブラジル政府が負担、雇用する農場主が立替えた残り半分を移民がのちに返済するという条件だった。
移民は、ブラジルでお金を儲けて日本へ帰るという夢を持ってやって来た。1906年に移民送り込みの交渉のためブラジルを訪れた水野龍代議士は、日本に戻ると「ブラジルで働いて金持ちになれ。ブラジルにはコーヒーという金の成る木がある。それを手でもぐだけだ」と言うような宣伝文句を掲げて大々的なキャンペーンを展開した。
しかし、移民は日本で聞いていた宣伝とはまったく違う現実に出くわした。言葉、生活習慣などのカルチャーショック、雇用側の虐待、劣悪な労働条件、安い賃金などが移民を苦しめる。厳しい監督の下に重労働は終日続いた。トイレもない粗末な住宅、ベッドは枯れ木を集めて間にあわせるといった状態だった。さらに食料品は、市場より高い値段で売っている耕地内の売店で買わされた。農夫として働くのが嫌になって耕地から逃げ出し、工員か港湾労働者になった者も多かった。笠戸丸移民が到着して1年後、コーヒー園に残ったのはわずか191人だった。
ブラジル向け日本移民の大部分は1925年から1941年に集中して移住した。日本を直撃した世界恐慌は、移民送り出しをさらに促進した。多くの移民がサンパウロあるいはパラナ州の耕地または町に入植。彼らは、イチゴ、茶、米、じゃがいも、綿花などを栽培した。1930年代にはブラジルは移民国として最大となったが、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権下(1931〜1941)、入国数は下向線をたどった。
好印象の日本移民
ブラジルに到着した日本移民について報じた1908年6月25日のコレイオ・パウリスターノ紙の記事を紹介する。
「男性の一部は元軍人で、胸に勲章をつけていた。その中の一人は勲章を3つも持っていて、そのひとつは特別な殊勲が認められた金の勲章だった。大勢の人が、細く削られた竹の棒に、色を塗った絹の小旗をつけたものを持っていた。これらの小旗はペアになっていて、一方は真ん中に赤い丸が描かれた白地、もう一つは金と緑だった。この日本移民第1陣は、友好の意を示すため、ブラジルの旗を日本で作って身に付けてきたのである。繊細な心がけ、尊敬すべき礼儀の表現である」
「食堂で1時間ほど過ごした後、一同はそれぞれの寝室に向かったが、サロンは綺麗に掃除され、タバコの吸殻や唾を吐いた後など一切なかった。唾を吐き散らした後や煙草の吸殻を靴ですり潰して立ち去る他国の移民との違いに驚かされた。食事は、順番にとるため、待ち時間も一番遅い組は2時間も待たされたが、ふざけた叫び声やいら立ち、不服の声は一切なかった」
出展:半田知雄著『ブラジル移民の回想』
Ondina Antonio
Rodrigues著「ブラジル移民」
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移民博物館
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ネガ及びオリジナルをあわせ8000点の映像があり、肖像研究部の所蔵資料は学生、歴史家、広告業者、映画製作者、研究家、出版社、一般に利用されている。それら肖像は移民の母国の生活状況、乗船、航海、サントス港上陸、移民収容所での様子、コ−ヒ−園での生活状況、サンパウロの工場での労働状況、移民のレジャーおよび社会、文化組織など多岐にわたり、ブラジルの移民に関して最も充実した所蔵
資料センターである。
移民博物館ホームぺージ:www.memorialdoimigrante.sp.gov.br
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