3世紀に渡る奴隷制度
初めて黒人奴隷がブラジルに連れて来られたのは、ブラジル植民地時代初期。トメ・デ・ソウザが総監に就任した1549年から奴隷貿易は活発化し、ポルトガル人は労働力としてインディオではなくアフリカ人を選んだ。
ポルトガル人は、高いお金を払って多くの奴隷を輸入し、ヨーロッパで高い需要がある砂糖の生産に着手した。最初は土地感のなさから逃亡できずにいた黒人奴隷だが、時がたつにつれ、多くの奴隷が主人の元から逃げ出し、ジャングルの中で生活していた。彼らにとって自由を得るにはそうするしかなかったのだ。ジャングルに逃げ込んだアフリカ人たちの隠れ家はやがてキロンボと呼ばれるようになり、そこを起点に黒人コミュニティーは拡大していく。そして、ポルトガル人社会とキロンボ社会は、決して相容れない並行社会となった。
キロンボで最も有名なのは16世紀終わりにできたパルマーレス(現在のアラゴアス州に位置する)である。1670年、パルマーレスには2万人が生活していた。黒人以外にも、ムラート(黒人と白人の混血)、インディオ、 社会からはぐれた浮浪者などがおり、植林をしたり、魚を釣ったり、狩をしたりして生き延びていた。また、キロンボの住民は、他のところから黒人を無理やり連れてきて「奴隷」にすることもあった(キロンボで奴隷にされていた黒人は、他の黒人を連れてくることで自由を得ていた)。パルマーレスのリーダーにズンビという男がいたが、1694年キロンボがポルトガル人によって襲撃されたときに殺害されている。
一方、ポルトガル人に仕えていた奴隷たちの生活は苦しかった。彼らは暗い小屋に住み、残飯を食べさせられていた。鎖で繋がれ、作物の収穫が思うようにいかなかったり、態度が悪かったりすれば暴行を受けた。労働は夜中まで休みなく続いた。そんな中、ほとんどの者は8年もたたないうちに死ぬか、もしくは病気になり働けなくなってしまった。
奴隷貿易が正式に禁止となったのは1850年。奴隷貿易が禁止となり、奴隷ビジネスが成り立たなくなったことで、コーヒー栽培などのために、奴隷に代わる労働力として移民の受け入れを進める動きが始まる。また、一部から支持を受けていた共和制主義者や奴隷制廃止論者が少しずつ黒人奴隷制度の廃止につながる法令を定めていき、1888年5月13日ついにイザベル妃がアウレア法に調印、ブラジルにおける奴隷制度の廃止にこぎつけた。
<社会からの疎外>
16世紀には約4百万人の黒人奴隷がブラジルに連れて来られている。それから4世紀が過ぎた現在、ブラジルの黒人人口は1000万人弱と報告されている(地理統計院2004年調べ)。しかし多くの人が社会的に差別されることを嫌って、自分を黒人と申告していないため、実際の黒人人口は1000万人以上だと言われている。大半のアフリカ系ブラジル人はメスチーソ(混血)に属しており、その数は7500万人にも上る。全人口が約1億8550万人であることを考えるとメスチーソは人口のおよそ半分を占めることになる。しかし大学の中でメスチーソが占める割合は全体の14%ほどで、この数字はアフリカ系の人々が、いまだブラジルにおいて社会的に疎外されているということを示している。
このような事実が指摘されている中、政治家やNGO団体は、アフリカ系ブラジル人にさらなるチャンスを与えようと活動している。黒人奴隷はブラジルに着いてから3世紀にもわたり、強制労働をさせられ、もちろん市民権など所有していなかった。そしてまた、奴隷制度が正式に廃止になった1888年以降も、黒人奴隷の子孫に当たる人々にも社会進出の助けとなる政策は確立されていない。
アフリカ系ブラジル人の生徒数を確保しようと、大学入試では2004年から、アフリカ系ブラジル人に対する特別合格枠が設けられている。各州のアフリカ系人口が全体に占める割合で特別合格枠が定められており、この制度は多くの大学で実施されている。